日本の城跡

加納城

本丸石垣
訪問日 S62年12月
ポイント 守護代斉藤利永が守護土岐成頼の居城、川手城の防備の為の築城がはじまり。150年後関ヶ原の役で天下の実権を握った徳川家康が戦国時代の山城、岐阜城を廃して近世城郭として生まれ変わらせたもの。大阪方への備えとして重要視し、防備はもちろん、歴代藩主は譜代の重要人物を置いた。
印象 岐阜城をみて加納城に来ると、まさしく戦国から近世への城郭の変遷を感じる。戦後自衛隊の駐屯地になっていた為か、本丸跡には埋門・筋金門・鉄門・石垣・天守等の遺構は残っている。しかし二の丸・三の丸は小学校や公共施設となり、堀は埋められ市街地化しており残念。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  美濃の守護代、斉藤利永が守護土岐氏の川手城の防備の要害として築城した。その後斎藤氏が累代居城したが土岐氏、及びその守護代の後継争いから土岐家中の結束はゆるんだ。この機に乗じて、のちの斉藤道三が台頭、土岐頼芸に重用され、西村・長井の名跡を継ぎ、更には守護代斉藤利良の病没したのち、斉藤家に入った。道三は稲葉山城に入城した為、加納城は廃城になった。関ヶ原の役で岐阜城が陥落すると、徳川家康は翌年、娘婿の奥平信昌を加納城に封じ、岐阜城を破却して加納城の増改築を行い大阪方への備えとした。しかし名古屋城の完成で地位は低下し、奥平氏も嗣子続かず三代で断絶した。その後女婿の大久保忠興、次いで戸田光重が入封した。次いで安藤信友が入封し、大阪城代、老中として活躍したが、後継者の行跡悪く減封・移封、永井氏が入封し明治まで在封した。永井氏は歴代幕政の要職で活躍、最後の尚服も寺社奉行を経て若年寄に任ぜられた。
本丸
同・天守台
本丸
石垣
野面積み石垣