日本の城跡

大垣城(別称:巨鹿城)

復興天守・復元西門
訪問日 S62年 9月
ポイント 西美濃平野の中央に位置し、東に木曽・長良・揖斐の木曽三川に守られ、北に東山道、南に東海道や美濃路が走る交通の要衝。大垣城は平城で水の城と呼ばれるように、曲輪は三重の水堀に囲まれ、輪郭式の縄張である。軍事上の拠点として重要視され、歴代権力者の重臣が城主となっている。関が原合戦の前哨戦、石田三成の西軍が東軍に先んじて入城、関が原での戦い終了後も攻防は続き、三成の娘婿福原長尭は家康の勧告に従い開城するまで最後まで抵抗した。
印象 三重の水堀に守られた壮大な平城、国宝の艮隅櫓・天守はじめ水堀等を戦災と住宅開発で失った。からくも天守・隅櫓が復興され、西門・東門・土塀・石垣・土塁が復元され城址公園になっている。しかし堀がかなり埋められた為か、かっての湖中の城と言われた面影はない、町の中にうずもれそう。
地図
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略史  大垣城は戦国期に竹腰か宮川氏らによって築城されたという。西美濃の要衝である為戦国武将の激しい争奪の的となった。大垣城はその後織田信秀が攻め落としたが、斉藤道三が巻き返して再び竹腰氏が入城した。しかし道三親子の争いで竹腰氏は討死、代わって氏家ト全が城主となり、城は拡張整備された。その後羽柴秀吉の天下になると池田恒興・輝政、羽柴秀次・秀長、加藤光泰・一柳直末・羽柴秀勝、伊藤祐盛が入城、秀吉の大垣城を重視したことが分かる。関が原合戦の時、石田三成の西軍は大垣城に入城して東軍を迎撃する態勢を敷いた。しかし家康は大垣城の西北の勝山に陣取った為、三成は関が原に向かって大垣城を出、決戦がなされた。合戦後家康の時代となり、石川泰通が立藩。そして松平忠良、岡部長盛、松平定綱の後、戸田氏鉄が入封し明治まで在藩した。氏鉄は島原の乱の鎮圧で軍功挙げ、又新田開発、農耕法の改善、治山治水等を積極的に行った。子氏信は譜代藩の藩法として最も整備された定帳を作成した。その後財政は困窮しだし、家臣を整理する家中改革、倹約令の公布、領民から多額の調達金等で再建を図った。しかし財政は更に窮迫し、幕末小原鉄心を登用し藩政、軍制改革等財政整理を断行した。禁門の変、長州征伐、鳥羽伏見の戦いに幕軍として軍功をたてたが鉄心の説得で勤王に統一、新政府軍の先鋒で参陣した。
復興天守
同・隅櫓
隅櫓
復元東門
    東門・天守
   
天守より関ヶ原方面
腰曲輪・堀
    
二の丸
天守石垣・洪水標識
野面積み石垣