日本の城跡
関ヶ原古戦場
関が原激戦地
訪問日
S63年 6月
ポイント
関ヶ原の戦いは家康が会津遠征によって三成を挙兵させ、反徳川勢力を壊滅して天下をとる計略であった。しかし東軍の多くの豊臣系の諸将にとっては違っていた。福島正則・加藤清正らは豊臣政権に害をなす三成を討つ為であった。その背景には三成ら「官僚派」大名と「武功派」大名の戦いであった。三成らに讒言されて秀吉の勘気を被った武将は多かった。この豊臣政権内にくすぶる対立が関ヶ原合戦を動かした大きな原因となり、これを上手く利用した家康の政治力である。
印象
店の若い人達とハイキングに行く。意外と狭い所という感じ。ここに17万の大軍がひしめきあったのか。鉄砲が戦に登場したとはいえ、まだまだ弓・刀・槍が主体であった為であろう。負けるはずのない西軍の陣構えが数時間で壊滅、大将の戦いの前の政治力と人望の違いを感じた。なにせ西軍8万の内、合戦に参加したのは半数程度だから負けるなーーー
地図
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略史 1600年9月、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍、合せて17万の大軍が関ヶ原で激突した。「鶴翼の陣」の包囲陣を敷いた西軍は当初有利と思われたが、小早川秀秋ほか諸将の裏切りにより西軍は潰走、戦国最大の合戦は7時間余で東軍の圧勝で幕を閉じた。この戦いで大谷吉継自刃、小西行長・石田三成・安国寺恵瓊・は斬首、宇喜多秀家配流になった。この後覇権を確立した家康は、みずからの意図で大名の配置換えを実施し、ここに豊臣政権は崩壊、幕藩体制の基礎が築かれた。
東首塚
同
同・首洗い井戸
松平忠吉・井伊直政陣所
道標
島津義弘陣所
徳川家康陣所
徳川家康首実見場
関ヶ原
同
石田三成陣所
笹尾山・関ヶ原
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宇喜多秀家陣所
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