日本の城跡

犬山城(別称:白帝城)

木曽川沿いの犬山城
訪問日 S63年 2月
ポイント 城は木曽川の南岸、断崖上にあり、中仙道・美濃街道を制し、濃尾平野を一望する要衝の地である。織田・豊臣・徳川時代を通じて尾張北辺の防衛拠点として重要視された。城下町は堀で囲まれた総構で備え、弱点と言われる東側の丘陵には瑞泉寺・成田山等の寺町を形成している。小牧家康・長久手の戦いでは前の城主で池田恒興が秀吉方に味方し、信雄方の犬山城を攻略、戦端を切った。豊臣秀吉は犬山城に入って本陣を構え、小牧山の徳川家康に対した。ある面で日本の運命を決する要の位置に立ち注目を浴びた城。
印象 全国で現存する十二の天守のうちで最も古く、国宝である。小ぶりだが、三層五重の内部は梁の木組み、急傾斜の梯子など昔の構造が分かる。犬山城は明治に廃城後、保存運動で県の管理となった。しかし地震で損傷し、修理を条件に全国で珍しく旧城主の成瀬家に譲渡され個人所有に。現在は犬山市に管理を委託している。城中に成瀬家の表札の家があり、びっくりした。木曽川の断崖に立つ城は本当に美しく絵になる。
地図
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略史  室町時代に越前・尾張の守護斯波義重は守護代として織田氏を尾張に配した。以後織田氏は尾張で勢力を伸ばしたが、織田広近の時、美濃への押さえとして木下村に砦を築いた。織田氏は三光寺に移ったが四代目の信康の時、木下城をそっくり犬山の現在地に移築した。信康は美濃の斉藤道三を攻めたが敗退、子信清はその後の同族間の争いから従兄弟の織田信長に攻略され、以後丹羽長秀・池田恒興はじめ、関ヶ原の合戦までに八家も城主が交代した。関ヶ原の頃の城主、石川・小笠原氏が近世犬山城を構築している。関ヶ原後、徳川家康の四男松平忠吉が清洲藩主となり、前述の付家老小笠原吉次が犬山城に入城した。忠吉没後、尾張徳川家の祖義直が清洲城主となり付家老平岩親吉が入城したが嗣子なく除封、尾張徳川家の付家老成瀬正成が入り、美濃今尾藩の竹腰家とともに尾張藩を支えた。紀州藩の安藤・水野家、水戸藩の中山家がいわゆる”五家”と称され、維新には成瀬家はじめ五家は大名として念願の立藩を果たした。
天守閣
遠望
 
木曽川石碑・天守
山麓の堀
松の丸門・矢来門
道具櫓
白帝文庫
石垣・小銃櫓
石垣
成瀬家・表札
本丸鉄門
 天守
  
   
七曲門
針鋼神社
町家