日本の城跡

岩崎城

遠望
訪問日 S63年 3月
ポイント 二重の空堀に囲まれた40m.の丘の上に位置する城。小牧・長久手の戦いで豊臣の大軍に挑み、家康勝利の一因をつくった城。なお氏次の後裔は徳川譜代の大名として播磨三草を領した。
印象 負けると分かった戦でも挑む、小豪族生き残りの為の必死さが感じられた。小高い丘に立派な天守と御殿が見え、喜んで行くも模擬天守であった。がっかりだ。もともと砦ほどの規模であり、期待するほうが無理。しかし空堀、土塁がしっかり残っている。
地図
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略史  愛知郡の土豪、丹羽氏清が築城。次の丹羽氏識・氏勝父子は三河の徳川氏と尾張の織田氏に挟まれ双方から従属を迫られたが、徳川、織田氏間の同盟後は信長に仕え、信長死後は家康に従った。小牧・長久手の戦いの時、城主の氏勝の子、氏次は徳川の本陣、小牧山に参陣し弟氏重が城を守っていた。そこへ豊臣方の池田恒興らが三河岡崎城に奇襲すべく城下を通った為、氏重は寡兵ながら戦いを挑み、氏重以下城兵は全員討死してしまった。しかしこの戦いで池田勢が一時食い止められ、徳川方の長久手での勝利を導いく因となった。
模擬天守・本丸
 
 
古城碑
模擬天守・土塁
土塁・空堀
空堀
空堀
土塁・空堀