日本の城跡

清洲城

城碑
訪問日 S62年 5月
ポイント 鎌倉街道と伊勢街道の合流点で、中山道にも連絡する東西交通の要衝。更に五条川が城の東から南に流れ内堀の役目している。”清洲越し”が行われるまでは、200年間政治・経済・交通の中心で城郭の規模は東西2キロ、南北2.5キロあり、人口6万の京都から東では最大の都市であった。
印象 現在の清洲は大名古屋の一部のようで、JRで行くといつのまに通り過ぎてしまいそう。この名城もJR東海道線、新幹線で二つにぶった切られ無残だ。住宅開発・公園化で遺構はあまりないが五条川や堀跡あたりに雰囲気が。清洲城訪問後、天守閣が鉄筋で復興されたようだが、どうも感心しない。
地図
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略史  尾張守護の斯波義重が室町時代初期に築城。その後尾張の府城として栄えた。しかし戦国時代に入ると守護代の織田氏が斯波氏をしのぐようになり、義統のころには織田信友が事実上の清洲城主となった。この為義統の家臣簗田氏らは信友を殺害しようと企んだが、逆に信友に攻め立てられ斯波勢は全滅した。義統の遺児岩竜丸はからくも城を脱出して那古野城の信長に救いを求めた為、信長は翌年に清洲城を攻めて信友を謀殺し清洲城に入った。こうして信長は信友が領していた尾張下四郡を手中におさめた。その後信長は岩竜丸を元服させ義銀と称したが、反抗した為追放、斯波氏は滅亡した。信長は居城は小牧山、岐阜、安土へ移ったが、天下取りの前に本能寺で斃れた。豊臣秀吉の時代になると清洲城は信長の次男信雄が入城し本格的に整備拡張された。信雄のあと、城主は福島正則、関ヶ原後家康の四男松平忠吉が入封立藩した。忠吉没後徳川義直が入封したが、家康は西国諸大名の抑えとして名古屋に新城の築城を命じ、城下町もろとも名古屋に移った(清洲越え)。清洲城は廃城に。
清州古城跡・天守跡
  石碑
信長像
 
古城跡
周辺旧家
模擬天守