日本の城跡

小牧山城(別称:小牧城)

遠望
訪問日 S62年 5月
ポイント 尾張平野の中央にある、85m.の小牧山から平野が一望できる要地である。山を五段にわけた曲輪を堀と塁で守り、山麓に三重の堀と西部に総構えの長堀を備えた。まさに尾張平野の要・へそであり江戸時代は尾張藩によって入山が禁止された。
印象 ぽっこりと尾張平野にある、何処から見ても目立つ小山である。信長が目をつけ築城したが、信長の器量では入りきれなかった為、4年程で美濃に移り廃城になってしまった。そして家康が目をつけ、小牧・長久手の合戦で本陣とし、歴史の表舞台に。しかしいずれも短い脚光であった。本丸部分に模擬天守がある他は石塁・曲輪が見られる程度だ。
地図
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略史  今川義元を倒した織田信長は美濃の斉藤龍興に対抗する為、小牧山に築城し清洲から移った。その後斎藤氏の居城、稲葉山城を攻略して移り小牧山城は廃城になった。信長の死後、次男信雄は豊臣秀吉の圧迫を受けた為、信長の盟友、徳川家康に助けを求めた。家康も応じ、信雄・家康連合軍は清洲を本拠として反秀吉の兵を挙げた。豊臣方の池田恒興が犬山城を奪取、これに対し家康は尾張平野の要である小牧山を占領し本陣を構えた。長久手での激戦はあったが、両軍主力の決戦は無く、秀吉、信雄との単独講和、続いて家康との和睦が成立した。この結果、両雄が手を結び秀吉の天下統一が順調に進み、家康も互角以上の戦いをしたことで徳川氏の立場を有利にした。
遠望
  模擬天守
   
近隣
模擬天守より