日本の城跡
長久手古戦場
略史 柴田勝家を破り、信長の後継者として地位を築き始めた豊臣秀吉に脅威を感じた織田信雄は、徳川家康に援助を求めた。この為豊臣方の池田恒興は犬山城を奪取、秀吉はこの機に乗じて大軍を率いて大阪を発ち犬山城に入った。これに対し家康、信雄方は小牧山城に本陣を置き、睨み合いの持久戦になった。しかし豊臣方が池田恒興の家康の本拠岡崎城に中入れの案を取り入れ動いた為、これを察知した家康は別働隊を先回りさせた後、自ら本隊をもって豊臣軍を挟撃、壊滅させた。豊臣軍の内、池田恒興、森長可ほか有力武将が討死した。その後両軍は膠着状態になったが、秀吉は外交術で信雄と和睦した為、家康は名目を失い三河に引き揚げた。局地戦では家康の勝利であったが、全体的にはその後家康も秀吉と講和を結び、臣従することとなった。 |