日本の城跡

名古屋城(別称:蓬左城・楊柳城・鶴ヶ城・金城・亀尾城・柳ヶ城)

名古屋城天守閣・本丸
訪問日 S62年8月、62年10月、63年2月、H31年2月
ポイント 関ヶ原後、家康は大阪城の豊臣秀頼に対する為、東海道の要衝尾張に江戸城の確固たる前線基地が必要であった。しかし清洲城では五条川の氾濫等地理的に問題があった為、織田信秀が奪取した那古野城に新城築城を計画、前田利常、加藤清正、池田輝政、福島正則等豊臣恩顧の西国二十大名を動員した。そして封建的権威を象徴するべく、”尾張名古屋は城でもつ”といわれた五重五層の金鯱をもつ天守・石垣・御殿・櫓・西ノ丸等完成、城下町は元清洲城下の住民が町ぐるみで移転した”清洲越し”を実施して名古屋の核となった。城南の商業地域は基盤割りになっており、その西に人工的に堀川が開かれ城から熱田港に通じ、物資輸送の動脈になっていた。本丸御殿再建。
印象 立派な縄張りである。美しい勾配と巨石が積み上げられている迫力満点の石垣、幅広い堀、四棟の隅櫓等さすがと感心!復興天守を見るたびに、空襲で焼けてしまったのが残念無念。八代将軍決定に際し、御三家筆頭を自認する尾張家が紀州家に敗れた後、幕府に反抗したのは尾張名古屋のプライドか。現代の尾張名古屋人に通じるものを感じた。再建された本丸御殿は立派、相当金もかかっている。そのせいか入城も有料になっていた。観光客は以前とは雲泥の差、外人も含め増加していた。久しぶりなのでゆっくりで本丸はじめ二の丸、外堀を歩いた。さすが御三家筆頭の城、石垣には圧倒される。
地図
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略史  徳川家康の四男松平忠吉が立藩したが病没した為九男義直を甲府から移封、最初清洲に入城したが地形の問題から名古屋に築城した。義直は家康の下で養育され、大阪夏の陣後名古屋に入城した。竹腰正信、成瀬正成を付家老とし、以後幕末まで両家が藩の舵取りを担った。義直は林羅山の薫陶を受け儒学を信奉奨励した。次の光友は厳しいキリシタン弾圧を実施、他方木曾谷を支配し山林収入による財政の強化を図った。継友の時、将軍家後継争いで紀伊藩に敗れた為吉宗への反発は強く、次の宗春は質素倹約を旨とする享保の改革に抵抗し開放経済政策を進めた為隠居に。その後一橋家、将軍家から後継が送り込まれた上、慶勝の時も将軍家後継問題で一橋派に与した為安政大獄の嵐で隠居させられた等から幕府に対する反感は強く、戊辰時には御三家ながら勤王恭順した。
夏の名古屋城
堀・石垣
   
天守閣礎石
二の丸
加藤清正公
天守より本丸
天守
三の丸外堀
   
三の丸外堀・大津橋
三の丸
石垣・堀
埋御門
二の丸茶亭
表二の門
秋の名古屋城
復興天守・未申櫓[西南隅櫓)
未申櫓[西南隅櫓)
天守・石垣・西堀
水堀・石垣
御深井丸・清州櫓
堀・石垣
水堀・石垣
天守・水堀・石垣
水堀・石垣
雪の名古屋城
天守・名城公園
北堀
北堀・石垣
天守・水堀
石垣・北堀
清州櫓・西堀・石垣
西堀・石垣
清州櫓・西堀
石垣・西南堀
西堀
南堀
榎木御門・旧離宮表門
表一の門

以下H31年2月再訪分。二の丸南外堀・東南隅櫓

二の丸東外堀・東鉄門跡

二の丸東鉄門跡
 


二の丸東北隅櫓台方面

二の丸東南隅櫓台方面

東鉄門台

同枡形

二の丸

同の名護屋古城碑

二の丸御殿跡

同から本丸方面

清正公石引の像

本丸堀
本丸東南隅櫓
本丸東堀、左に本丸搦め手馬出石垣
本丸大手馬出の石垣
二の丸と大手馬出(右)間の彫り
本丸表門に架かる橋

本丸西南隅櫓方面

本丸表門

本丸東南隅櫓
表門内部から
表門枡形

同の巨石

再建された本丸御殿

同外観

御殿内部




本丸東門枡形

天守


本丸不明門
本丸北堀・左塩蔵構
天守下の北堀

同石垣

御深井丸から不明門

塩蔵構門

御深井丸に置かれた天守礎石

同・井戸

同にある古墳

塩蔵構隅櫓台

御深井丸にある弓矢櫓台方面

御深井丸西北隅櫓

天守

天守下の西堀


天守

鵜の首

西南隅櫓・天守

西の丸榎多門

西の丸土塁

西の丸、本丸西南隅櫓

本丸表門、東南隅櫓

榎多門西の丸


西の丸南外堀


西の丸西外堀

西の丸月櫓台


鵜の首・天守



御深井丸西北隅櫓



北外堀

同越しの天守

旧湿地帯