日本の城跡

桶狭間古戦場

高徳院・義元公本陣
訪問日 S62年 7月
ポイント 織田信長天下取りの大きな戦いである。いまだ尾張の一豪族であった信長が駿河の大身、今川義元に挑む為篭城を捨て乾坤、奇襲に賭けたもの。諸説あるが、大軍が細長くなる当地に帯陣すべく、地元民をつかって接待したと言わる。そこに夕立という天候も味方、泥湿地となり足を奪われた今川方に襲い掛かった。真に情報戦の勝利であろう。
印象 有名な古戦場に来た。狭間という地名から山の谷あい、狭い所を想像して来たが、その後の開発があったせいか狭間の感じはなかった。それでも今川の大軍は細長く帯陣せざるを得なかったようで、主戦場と義元戦死の場所が田楽狭間と豊明市栄の二説があり、理解できる。
地図
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略史  駿河・遠江・三河を制圧した今川義元は永禄三年に駿河を進発し、四万の大軍を率いて尾張に迫り沓掛城に入った。一方、織田信長は当初参百程の軍勢で清洲城を出発し熱田神宮に入った。今川義元は織田軍の丸根・鷲津砦を陥落させた後、田楽狭間で昼食を取っていたが、突然の夕立に狼狽しているところに織田軍の急襲を受け、義元は敢無く討死した。
以下高徳院
今川義元公の墓(1)
今川義元公の墓(2)
戦評の松
戦評の松周辺
  古戦場碑
石碑
石碑
周辺