日本の城跡

鳥羽城(別称:錦城)

遠望
訪問日 S63年 8月
ポイント 志摩半島の北東部、リアス式海岸の絶好の泊地で海路の拠点である。城は鳥羽湾の岬にあり、付け根の部分を切断して浮城とした。水軍の城らしく、大手門が陸の方でなく海に向かって造られている。九鬼氏は信長の下、石山合戦では鉄甲戦艦を旗艦として大阪湾で毛利水軍に大勝している。豊臣秀吉の下でも朝鮮出兵で日本水軍の主力を務めた。
印象 海女と真珠の町として賑わい、城下町の雰囲気は少ない。水族館の横の川は堀跡らしい。海に突き出した小さな半島状の所にある。幼稚園の脇に石垣が残り、復元白壁が城らしい雰囲気をかもしだす。本丸は小学校になっており遺構は僅かに残る石垣だけだが、眼下の鳥羽湾の眺望がすばらしい。
地図
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略史  九鬼嘉隆は織田信長の支援を受け志摩の諸豪族を攻め志摩一円を統一。そして志摩の豪族橘氏と婚姻したが、水軍を率いる九鬼氏の居城は内陸の田城であり不便であった為、海辺の橘氏の鳥羽館を奪い城郭に改修した。その後も九鬼氏は信長、秀吉に従い各地を転戦、活躍した。関が原では親子が東西に分かれて戦い、嘉隆の子で東軍の守隆が家名を守った。しかし守隆の子良隆が病弱であった為、次弟久隆、三弟隆季の間に家督騒動が持ち上がり、最終的に久隆は摂津三田へ、隆季は丹波綾部に移封され、水軍の九鬼氏は陸に上げられた。その後内藤忠重が入封し近世城郭に改築したが、将軍家綱の大法会で宮津藩主永井氏を斬殺、断絶没収となった。幕領後土井、板倉、戸田松平氏と交替し稲垣氏が入封定着した。立地条件から捕鯨、ぼら、鮑等漁業生産を保護し藩の財源とした。幕末、鳥羽伏見で幕府方に参陣し朝敵となるも、多大な戦費を負担し許される。
登城坂
大山祇神神社
登城坂
家老屋敷
土塁・石垣
二の丸
本丸石垣