日本の城跡
花倉城(別称:葉梨城)
略史 遠江守護今川範国は足利尊氏に従って軍功を挙げ、駿河国葉梨荘を与えられたが、駿河国は南朝方の勢力が強く、容易に入国出来なかった。その為範国は、援軍として山城国の武士松井助宗を葉梨荘内に所領を与えて入国させ、南朝方の主力・安倍城主狩野氏らを攻撃、入国の機会を狙った。また駿河府中に南朝方の諸氏を攻めて久能城に追撃した。更に大津城に籠る、石塔氏家人らを攻めて退去させ、駿河の南朝方勢力の一掃を果たした。こうして範国の嫡子範氏は葉梨荘に入国し、駿河における拠点として居館を設け、詰城として花倉城を築城した。その後、氏家、泰範、範政と3代60数年、今川氏の本拠地として栄え、範政が駿府へ拠点を移した後も、一族を花倉遍照寺の住職として、駿河の西の守りとした。花倉城は今川氏輝の急死により勃発した、梅岳承芳(のちの義元)と兄・玄広恵探との後継争い(花倉の乱)で、恵探が最後に籠り敗れた地でも知られる。戦国時代末期の武田軍の攻撃で落城、廃城となった。 |