日本の城跡

花倉城(別称:葉梨城)


主郭手前の土橋
訪問日 H30年 2月
ポイント 標高297mの城山の南北に伸びる山頂稜線を堀切で区切り、主郭・二の郭が築かれ、土塁が廻り、小さいが曲輪が付いている。更に山頂稜線から派生する他の稜線にも複数の堀切を設けて防御施設とした典型的な中世山城である。当城は西から南へ斜面が緩く、攻撃されやすい為、特に主郭と二の郭間の堀と二の郭南の堀は、西側斜面下方に長く伸ばしてY字状となり、谷底に降下している。
印象 橋の工事で迂回させられ、少し迷ったがなんとかため池まで到着。しかしこれからが山道で、舗装されているが急崖の細道を、ミカン畑・茶畑の間をびくびくしてかなり登る。終点で車を降り、城域に入るとすぐ土橋という細道を登り、、更に土橋があり、その上に二の郭と本郭間の堀切があった。二の郭は土塁が廻り、南にも堀切で固めている。次に主郭は四方の尾根を三段に削平、堀切で区画している。主郭・二の郭共に帯郭を付けた縄張り。麓に居館を置いている。
地図
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略史   遠江守護今川範国は足利尊氏に従って軍功を挙げ、駿河国葉梨荘を与えられたが、駿河国は南朝方の勢力が強く、容易に入国出来なかった。その為範国は、援軍として山城国の武士松井助宗を葉梨荘内に所領を与えて入国させ、南朝方の主力・安倍城主狩野氏らを攻撃、入国の機会を狙った。また駿河府中に南朝方の諸氏を攻めて久能城に追撃した。更に大津城に籠る、石塔氏家人らを攻めて退去させ、駿河の南朝方勢力の一掃を果たした。こうして範国の嫡子範氏は葉梨荘に入国し、駿河における拠点として居館を設け、詰城として花倉城を築城した。その後、氏家、泰範、範政と3代60数年、今川氏の本拠地として栄え、範政が駿府へ拠点を移した後も、一族を花倉遍照寺の住職として、駿河の西の守りとした。花倉城は今川氏輝の急死により勃発した、梅岳承芳(のちの義元)と兄・玄広恵探との後継争い(花倉の乱)で、恵探が最後に籠り敗れた地でも知られる。戦国時代末期の武田軍の攻撃で落城、廃城となった。

遠望

周囲の山々

堀切

最初の土橋

登る

小郭

堀切

竪堀

急崖

大手道

小郭

二番目の土橋

竪堀

堀切

古道


大手道

大手道を振り返る

二の郭方面

二の郭帯郭

帯郭

主郭方面

主郭と二の郭間の堀切・竪堀

同堀切

二の郭虎口

二の郭土塁

二の郭から主郭方面、堀切

二の郭土塁

眺望

堀切から竪堀へ

二の郭

主郭へ

主郭帯郭

主郭

段差のある主郭

北西へ延びる尾根

北へ伸びる

見張り台か?

尾根道を主郭へ戻る

主郭帯郭

主郭城塁

主郭へ戻る

竪堀

二の郭南側の空堀


二の郭切岸

二の郭南側の尾根



その先の開けた所

その先に堀切

花倉方面

烏帽子形山方面

花倉から城方面