日本の城郭

興国寺城(別称:杜若城)

本丸
訪問日 H17年 6月
ポイント 北条早雲旗揚げの城。その後、今川氏、北条氏、武田氏、徳川氏と支配者が変わる。戦略上の重要拠点で典型的な連郭式縄張りをもつ。武田氏支配の時に造った、、深さ10m.以上の三日月状で障子堀の大空堀がある。
印象 北条早雲の最初の城とのこと。JR原駅から真直ぐ山に向かったところ。根古屋の地名。発掘整備中で良く分かる。連郭式の中世の城で、三の丸、二の丸、本丸、北郭が続き、土塁と堀で守られている。本丸のうしろに天守台らしきものがあり数段の石塁が見られる。その後の北郭との間に深く厳しい大空堀は圧巻。小さな城であるが今川、北条、武田軍将士の多くの血を吸いとった城だ。
地図
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略史  北条早雲が今川家の家督争いを鎮めた功により初めて入城し、伊豆侵攻の本拠地とした。その後今川義元は興国寺の戦略上の価値を認め、拡充強化したが、今川、北条、武田氏の争奪の地となっている。しかし今川氏の滅亡後北条軍が駿河に侵攻し、北条軍の前線基地となったが数度の戦いの後武田氏の支城になった。そしてその武田氏も滅亡、城主曾根正清は徳川家康に降伏開城した。家康は牧野康成、松平清宗を入城させたが、豊臣秀吉の小田原征討後中村一氏が領有した。関ヶ原の役後は再度家康の領有となり天野康景を城主とし立藩したが、天野氏が家臣の事件から蟄居した為除封となり興国寺城は廃城となった。
遠望
二の丸から見る
天守台
本丸
天守台
同石垣
同・土塁
同土塁
大空堀
北の丸方面