日本の城跡

長久保城(別称:長窪城)

遠望
訪問日 H17年 5月
ポイント 黄瀬川の臨む屈折地を利用した丘城。駿河・伊豆の境目の要地で後北条、今川、そして武田氏の争いの場。深沢城と同様、武田氏の甲州流縄張りをもった戦国期の城郭であったが開発で消滅。
印象 城地は本丸・二の丸・三の丸等からなる大規模な城郭であったが、土地改良工事やバイパス道路建設で城地が殆んど消滅してしまった。わずかに城山神社付近に段丘跡等が残るのみで残念である。道路建設の掘削痕が、無残な傷痕に感じられる。
地図

略史  戦国期に後北条氏の駿河侵攻に対する防衛拠点として今川氏が築城。その後「境目の城」として今川義元、北条氏康、武田信玄の間で領有が変遷したが、武田勝頼が対北条氏に対する前線基地として戦国城郭にふさわしい大改築を実施した。武田氏滅亡後、徳川家康が領有して松平家忠、牧野康成を置いた。豊臣秀吉の小田原征討後は中村一栄の支配下になったが転封となり、長久保城は廃城となった。
城山神社
以下境内
土塁