日本の城跡

駿府城


復元東御門・多門櫓・高麗門(再訪時撮影分)
訪問日 H12年 7月他、H30年 2月
ポイント 徳川家康の隠居城として築城。東海道の押さえとして忠長等、藩主を置いた時期もあったが大半は城代支配であった。駿府城代は大阪城代と並ぶ幕府の重職。
印象 駿河は今川氏、武田氏から徳川氏へ。隠居城ながら大御所として天下に睨みを利かせた城だけに威厳がある。維新後、軍隊が置かれた為本丸が崩され、水堀が埋められたが、東御門巽櫓が復元、水堀も水も注入され復興中で楽しみだ。再訪。写真を撮りに訪問したがびっくり。二の丸堀の再現、本丸天守台の発掘等が現在進行中。特に天守台の大きさはさすが。訪問客に近くで見られるようにしてあるのも良かった。発掘が終ったら、是非とも再訪したい。
地図
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略史  武田勝頼滅亡後、徳川家康は駿府を領国経営の中心にする考えから松平家忠に築城を命じた。家康の関東入国後は豊臣秀吉の家臣中村一氏が、関ヶ原の役後は家康の家臣内藤信成が入城した。家康は将軍職を秀忠に譲り隠居城として入城し、大御所として睨みを利かせた。家康死後は徳川頼宣、忠長が城主になったこともあるが大半は城代支配に。幕末、徳川宗家の相続人、家達が70万石で入封立藩。この為浜松、相良、横須賀、掛川、田中、小島の各藩は上地となった。家達は富国強兵策に取組み、牧の原の開拓、茶樹の栽培などの殖産興業策を行った。

東御門巽櫓

同櫓門
本丸堀

    同土塁

中堀
      同

     同

     表御門
     中堀
     同

     同
      同
     御水門跡

    同石垣
    二の丸御殿跡
 以下訪時撮影分   中堀
      同
      同
   北の御門
   同内部より

同御門の土塁

二の丸

本丸方向、天守台発掘作業の土の山

復元内堀


内堀から中堀に抜ける水路に架かる橋

同水路



東御門方向

二の丸土塁

復元内堀・石垣


東御門・櫓門・巽櫓


玄関前御門石垣

二の丸坤櫓

本丸、天守台方向

旧天守台

発掘中の天守台




清水御門跡


同、昔の石垣が見える

同の中堀


二の丸坤櫓



中堀

二の丸御門跡

中堀
二の丸・坤櫓

東御門・櫓門

東御門・高麗門
櫓門

東御門枡形

中堀

巽櫓


復興東御門


二の丸水路付近

二の丸御水門跡

中堀

二の丸