日本の城跡

浜松城

天守閣
訪問日 H6年 4月
ポイント 三方原台地の南東端に位置し、鹿谷、池川谷等に天竜川の支流が入り込み天然の堀を形成している要害。浜松城は家康飛躍の城となった為、出世城といわれ城主になることが幕閣への登竜門と考えられた。天保の改革を実行した水野忠邦はじめ、歴代城主二十二代の内半数以上が老中、大阪城代、京都所司代に登用されている。
印象 桜が満開の頃訪問。城跡は公園として整備され沢山の人で満ちていた。天守が復興されているが、なんといっても家康築城当時のものといわれる野面積みの石垣がいかにも戦国時代築城の荒々しさが感じられた。
地図
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略史  徳川家康は遠江を支配し本拠を当初見付を選んだが、武田信玄の脅威を考えて今川氏の支城で、重臣の飯尾氏が築城した引馬城に城内の内紛に乗じて入城、拡張整備して堅城を築いた。その後勝頼の滅亡により武田氏の遺領を奪い駿河他五ヶ国の太守になった為、本拠地を駿府に移し家臣の菅沼定政を入れた。家康の関東入部後、豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が入城したが関ヶ原の軍功で転封、松平忠頼が入封立藩した。その後も東海道の要として水野、高力、太田、青山、井上等譜代大名が入転封、歴代幕閣に重きをなした。最後の井上正直は老中として生麦事件の解決や長州征伐で将軍家茂に供奉したが、戊辰時は素早く新政府軍に恭順、従軍した。しかし府中藩の創設で転封、廃藩に。
遠望
天守閣石垣
  石垣・天守
  
  天守入口
  
野面積石垣
石垣
曲輪の石垣
天守・曲輪・石垣
堀・石垣・庭園に架かる橋
 
庭園