日本の城跡

掛川城(別称:雲霧城・松尾城)

復元天守閣
訪問日 H8年 3月、H30年 2月
ポイント 東に逆川を配する要害の地。山内一豊が入城し戦国の山城から近世城郭の平山城に一大転換した。特に関東の家康に対する備えとして城の東方1キロ先に濠を穿ち、湿田、丘陵、土塁、寺院等を巧みに利用している。更に城下町を含む外周に総囲みの濠で囲んだ堅城。江戸時代の二の丸御殿が当時の姿で残っており必見。
印象 こじんまりした復興天守だが、木造で極力往時に忠実に再現されている。木の香りがする天守だった。その外、門、番屋等再建されており掛川市の歴史に対する姿勢に感激した。このところ白石城、小峰城等木造で再建されるようになりうれしいかぎりだ。再訪。朝早く登城したので、良い写真が撮れた。堀の発掘や御殿の整備などが進んでいた。小ぶりながら面白い城だ。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  朝比奈氏は朝比奈郷の地頭として在住し、室町、戦国期の今川氏の重臣。今川義忠の命で斯波氏への押さえとして掛川に築城、三代100年にわたり居住した。武田信玄に駿府を追われた今川氏真と落武者を掛川城に収容。遠江侵攻をめざす徳川軍の攻撃を良く防戦したが6ヶ月後ついに開城し、氏真に従って伊豆戸倉城に移った。家康の関東入部後山内一豊が入城し近世城郭を作りあげた。一豊が土佐に転封後松平定勝が入封立藩。その後安藤、松平、青山、本多、井伊、小笠原等東海道防衛の要として譜代が封ぜられた後太田道灌の末裔が明治まで在封した。資始の時京都所司代、老中に昇進し幕閣を担い、一方二宮尊徳仕法を採りいれ民生の安定に努めた。最後の資美は戊辰時逸早く恭順、府中藩の創設で転封、廃藩。
太鼓櫓と天守

大手門番所
   大手門

大手門
  
天守
   二の丸方向
     井戸
    天守内部
天守
二の丸御殿
    二の丸
   二の丸城門

以下再訪時撮影分
本丸・天守

本丸

本丸門跡
四足門
天守・城壁・手前が十露磐堀

復元十露磐堀

本丸門跡と太鼓櫓(三の丸から移築

三の丸

四足門

四足門・太鼓櫓・天守・復元三日月堀

天守・三日月堀

太鼓櫓・四足門

二の丸御殿

三日月堀


遠望


右は三の丸

本丸急崖

同、直下には松尾池と水堀が巡っていた

中の丸跡

天守北側、直下に水堀があった