日本の城跡

相良城

本丸
訪問日 H17年 8月
ポイント 権力をほしいままにした田沼意次が将軍の庇護をバックに諸大名から寄進を受けて築城した壮大な平城。だが反対派の松平定信により失脚、定信の命で十年余りで偏執狂的に完全破壊された城。
印象 竜宮城のような城郭だったようだが、松平定信による徹底破壊により学校、役場になっており、学校の土手に大きな松木が当時を思わせるが遺構は少ない。仙台河岸と言われる船着場に石垣が一部残る。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  相良は藤原南家の末裔周頼が居住し相良氏と称した。相良氏は源頼朝に従い肥後球磨の地頭に補され人吉に居城を構えている。戦国時代になって遠江に侵攻した武田氏は高天神城への中継地として築城した。徳川家康領有後は鷹狩に使用する相良御殿とした。江戸中期に本多忠晴が入封立藩後、板倉、本多氏が入転封後田沼意次が入封。将軍家重、家治の信任を受け側用人に昇進、築城を許された。更に老中に異例の出世を遂げ一族も要職に就いたが反対派の松平定信により免職、転封廃藩となり城も破却された。その後幕府直轄地となっていたが意次の次男忠次が復帰再立藩した。明治になり府中藩の立藩で転封廃藩となった。
相良市役所・本丸跡
市役所脇の碑
萩間川より見る
相良小・本丸跡
大和神社
仙台河岸の石垣