日本の城跡

国吉城


本丸・城碑
訪問日 H29年11月
ポイント 旧丹後街道を若狭国に入ると、北は天王山、南は御岳山に挟まれた椿峠があるが、国吉城は若狭へ深く侵入する為の軍事上の要所を抑える位置にある。城がある山の東西両面は急傾斜で、北側山裾には機織池(水堀)がある天然の要害を形成している。四方に延びる尾根上に曲輪が展開しているが、山頂を本丸とし、北西尾根筋上に五段の曲輪が連なり、西に派生する尾根上には高土塁と喰違虎口を持つ二の丸がある。更に発掘の結果、山上から山麓まで主要部はほぼ全面石垣化されていることが分かった。これは豊臣大名の木村氏によるもので、土造りの戦国山城から、織豊時代の領国統治の拠点としての城郭に変遷したものである。
印象 今日も山城が続く。境目の城として重要視されたことなどを、麓の歴史資料館で説明を受ける。町を挙げて遺構を盛り上げている。この城も結構きつい登城坂を登る。途中、サルの出迎えあり。中腹にしっかりした虎口をもつ二の丸があった。更に上ると曲輪群に到着。連続した五段の曲輪があったが、急な下り坂な為上から見るのみ。その後本丸へ行くと、土塁と堀切・虎口等で固められていた。眺望から厳しさと素晴らしさを感じた。土の城かと思ったが、織豊時代には全山石垣で固めたようでびっくり。崩した石垣は後世、麓の奉行所の石垣に使われたとのこと。
地図
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略史  国吉城は戦国期、若狭国守護大名武田氏の重臣、粟屋勝久が古城跡を利用して築城した。隣接する敦賀郡司朝倉太郎左衛門率いる越前勢が攻め寄せたが、以後朝倉氏が滅びる10年間、ほぼ毎年侵攻してくる越前勢を撃退し続けた。そして織田信長の最初の越前朝倉攻めの時には、粟屋氏が信長勢を倉見峠まで出迎え、共に国吉城に入城し、最前線の城として越前攻めの戦略が練られた。しかしこの時は浅井氏の寝返りで信長は退却、その後体制を整えた信長勢は、姉川で浅井・朝倉連合軍を破った。粟屋氏は朝倉軍を追う織田勢に敦賀で合流、朝倉氏の滅亡を見届けた。信長の死後、その後継をめぐる争いでは、羽柴秀吉方に与し、丹羽長秀の配下として、柴田勝家の越前国境に接する国吉城を改修している。戦後、粟屋氏は秀吉の直臣となり大阪に移り、替わって木村定光が入封、城と城下町を整備した。関ケ原の役後、京極高次が若狭一国の領主となり、要衝国吉城には重臣の多賀氏を入れている。京極氏の後には徳川譜代の酒井忠勝が入封すると、廃城となった国吉城の麓に佐柿町奉行所と御茶屋屋敷が造られた。

遠望

奉行所跡(資料館)

奉行所跡

藩主居館跡から奉行所跡

右、馬場下と左、准藩士屋敷跡

手前、馬場下、奥は藩主居館跡

奉行所跡から藩主居館跡

藩主居館跡




登城坂

二の丸土塁

二の丸枡形虎口




二の丸

二の丸

二の丸

本丸へ

本丸下の断崖

Ⅱ郭

(以下連郭曲輪群は仲間に写真を依頼)Ⅱ郭からⅢ郭

Ⅲ郭からⅡ郭切岸

Ⅲ郭

Ⅳ郭からⅢ郭切岸

Ⅳ郭

Ⅳ郭虎口

同をⅤ郭より

Ⅴ郭よりⅣ郭切岸

Ⅵ郭とⅤ郭切岸

Ⅵ郭

Ⅵ郭の先端

本丸帯曲輪段の石垣跡






本丸と連郭曲輪群との分岐点

本丸下の北堀切跡



本丸切岸

同石垣跡

本丸北西虎口跡



同虎口内部より

本丸急崖

急崖

眺望・丹後街道が走る

本丸


帯曲輪

本丸

東虎口・南隅櫓台

南隅櫓台

東虎口跡



佐柿の街並み