日本の城跡
国吉城
略史 国吉城は戦国期、若狭国守護大名武田氏の重臣、粟屋勝久が古城跡を利用して築城した。隣接する敦賀郡司朝倉太郎左衛門率いる越前勢が攻め寄せたが、以後朝倉氏が滅びる10年間、ほぼ毎年侵攻してくる越前勢を撃退し続けた。そして織田信長の最初の越前朝倉攻めの時には、粟屋氏が信長勢を倉見峠まで出迎え、共に国吉城に入城し、最前線の城として越前攻めの戦略が練られた。しかしこの時は浅井氏の寝返りで信長は退却、その後体制を整えた信長勢は、姉川で浅井・朝倉連合軍を破った。粟屋氏は朝倉軍を追う織田勢に敦賀で合流、朝倉氏の滅亡を見届けた。信長の死後、その後継をめぐる争いでは、羽柴秀吉方に与し、丹羽長秀の配下として、柴田勝家の越前国境に接する国吉城を改修している。戦後、粟屋氏は秀吉の直臣となり大阪に移り、替わって木村定光が入封、城と城下町を整備した。関ケ原の役後、京極高次が若狭一国の領主となり、要衝国吉城には重臣の多賀氏を入れている。京極氏の後には徳川譜代の酒井忠勝が入封すると、廃城となった国吉城の麓に佐柿町奉行所と御茶屋屋敷が造られた。 |
遠望 |
奉行所跡(資料館) |
奉行所跡 |
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藩主居館跡から奉行所跡 |
右、馬場下と左、准藩士屋敷跡 |
手前、馬場下、奥は藩主居館跡 |
奉行所跡から藩主居館跡 |
藩主居館跡 |
同 |
同 |
同 |
登城坂 |
二の丸土塁 |
二の丸枡形虎口 |
同 |
同 |
同 |
二の丸 |
二の丸 |
二の丸 |
本丸へ |
本丸下の断崖 |
Ⅱ郭 |
(以下連郭曲輪群は仲間に写真を依頼)Ⅱ郭からⅢ郭 |
Ⅲ郭からⅡ郭切岸 |
Ⅲ郭 |
Ⅳ郭からⅢ郭切岸 |
Ⅳ郭 |
Ⅳ郭虎口 |
同をⅤ郭より |
Ⅴ郭よりⅣ郭切岸 |
Ⅵ郭とⅤ郭切岸 |
Ⅵ郭 |
Ⅵ郭の先端 |
本丸帯曲輪段の石垣跡 |
同 |
同 |
同 |
同 |
同 |
本丸と連郭曲輪群との分岐点 |
本丸下の北堀切跡 |
同 |
同 |
本丸切岸 |
同石垣跡 |
本丸北西虎口跡 |
同 |
同 |
同虎口内部より |
本丸急崖 |
急崖 |
眺望・丹後街道が走る |
本丸 |
同 |
帯曲輪 |
本丸 |
東虎口・南隅櫓台 |
南隅櫓台 |
東虎口跡 |
同 |
同 |
佐柿の街並み |