日本の城跡

小浜城(別称:雲浜城)

本丸(小浜神社)
訪問日 H25年 5月、H29年11月
ポイント 城は小浜湾に流れ込む北川と南川に挟まれた中州で西面は直接海に面した要害の地である。そこに南川の河身の方向を変えて北川につなぎ、南の外堀とし、東と北の外堀は北川の支流の江古川の川幅を拡張して堀とし、西の外堀は海を利用するなど四周を水で囲んでいる。中州の中央に水堀で囲んだ本丸を設け、南に二の丸、東に三の丸、北に北の丸、西に西の丸を配する巨大な城郭で、櫓は本丸の七棟始め、全部で30棟に及んだ。天守は本丸南西隅に築かれたが、その設計は幕府大工頭中井正純が直接作事したもので、いかに酒井家が幕府から信頼されていたかがうかがわれる。
印象 小浜湾に面した城だった。川の流れを変えたり、拡張したり、基盤強化したり普請に工夫を重ねている。要害堅固かつ規模の大きな城だったが、開発でどんどん城地が無くなり、家が本丸石垣のすぐ側まで迫っていた。海も遠くになった。しかし僅かに残る本丸石垣・天守台・櫓台が昔を感じさせる遺構であった。ぐるっと一周す。再訪。川の対岸から写真を撮るなど、主に石垣を中心に確認。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  織田信長は丹羽長秀を後瀬山城に入れ、朝倉氏滅亡後の若狭の統治を命じた。その後浅野氏・木下氏が入部したが、関ヶ原の役で大津城籠城戦で大軍の西軍を釘付けにした戦功により、京極高次が大津より若狭一国を与えられ後瀬山に入城した。高次は港としての小浜の繁昌を期すため、雲浜の海浜地に築城を始めた。京極氏は高次、次の忠高とも加増を受け十一万石の太守になったが、小浜城はデルタ地帯に築城する為、基盤整備に時間が掛り、完成を見ずに松江に転封となった。代わって大老の酒井忠勝が川越から入封、着工以来37年を経て城郭と城下町が完成をみた。忠勝は将軍家の信頼厚く、幕政の中心で活躍した。酒井氏はその後も隆盛が続き、幕政の要職を歴任した。また学問にも熱心で国学者伴信友、梅田雲浜等を輩出した。しかし日光廟の普請等で支出が嵩み、財政は逼迫、領内で打ちこわしが発生してもいる。幕末忠義は京都所司代として井伊直弼の腹心として条約勅許問題や将軍後継問題に活躍したが、公武周旋失態の罪で蟄居となった。鳥羽伏見の戦いで幕府軍として出兵したが、のちに降伏。奥羽討伐では先鋒として出兵した。
南川越しの遠望 本丸
 ころび橋と井戸

本丸内社
天守台虎口 同内部より 天守台
天守台より本丸南側石垣 同より本丸西側石垣
    天守台
同より市内、後瀬山城方面 同より海側
 同より後瀬山城方面
  本丸より天守台
西側櫓台・虎口・石垣 同・石垣

北側石垣
   北西隅櫓台
西側石垣(外側) 西側虎口石垣 同石垣
   西側石垣
本丸北側石垣(外側)・堀跡
酒井家旧宅(縮小移築) 本丸東側石垣(外側)・堀跡 南東隅櫓台

西側石垣
      同
     同

    同

内堀・三の丸方面

藩校順造館移築正門(現若狭高校)
北川越しの遠望