日本の城跡
小浜城(別称:雲浜城)
略史 織田信長は丹羽長秀を後瀬山城に入れ、朝倉氏滅亡後の若狭の統治を命じた。その後浅野氏・木下氏が入部したが、関ヶ原の役で大津城籠城戦で大軍の西軍を釘付けにした戦功により、京極高次が大津より若狭一国を与えられ後瀬山に入城した。高次は港としての小浜の繁昌を期すため、雲浜の海浜地に築城を始めた。京極氏は高次、次の忠高とも加増を受け十一万石の太守になったが、小浜城はデルタ地帯に築城する為、基盤整備に時間が掛り、完成を見ずに松江に転封となった。代わって大老の酒井忠勝が川越から入封、着工以来37年を経て城郭と城下町が完成をみた。忠勝は将軍家の信頼厚く、幕政の中心で活躍した。酒井氏はその後も隆盛が続き、幕政の要職を歴任した。また学問にも熱心で国学者伴信友、梅田雲浜等を輩出した。しかし日光廟の普請等で支出が嵩み、財政は逼迫、領内で打ちこわしが発生してもいる。幕末忠義は京都所司代として井伊直弼の腹心として条約勅許問題や将軍後継問題に活躍したが、公武周旋失態の罪で蟄居となった。鳥羽伏見の戦いで幕府軍として出兵したが、のちに降伏。奥羽討伐では先鋒として出兵した。 |