日本の城跡
福山城 (別称:松前城)
略史 若狭武田氏の嫡流、武田信広は家督問題から出奔し流浪のすえ花沢館主の蠣崎氏に仮寓。道南の蝦夷征討で戦功を挙げ蠣崎氏の養子となり上ノ国館主に。その後秋田の安東氏が領有していた松前大館が蝦夷の攻撃で落城した隙に館を占拠し地盤を築く。 関ヶ原後松前慶広は徳川家康に支配権を認められ立藩(福山藩)。経済基盤はアイヌとの交易運上税と砂金の採取等。1719年に大名格。幕末、章広の時ロシアの南下政策で一時幕府に全島上地され陸奥他に移封。崇広の時諸外国の出没を懸念した幕府は本邦最後の旧式城を築城させ戻した。崇広は外様ながら老中格に昇進したが維新時、藩論は分れたが函館府の設置で新政府側に。この為徳川脱走軍の攻撃を受け落城、館に逃れる。 |