日本の城跡

甲府城(別称:舞鶴城)

内松陰門・本丸方面
訪問日 H4年12月、H12年 6月、H14年 9月
ポイント 武田信玄とは関係ない城。徳川家康が築城。武田家の旧領であり、江戸城防衛の外郭であるこの地を重要視した。石垣造りの階郭式の平山城で複雑な縄張りを持つ。最高所の本丸を中心に二の丸、三の丸、帯曲輪、稲荷曲輪等があり大規模である。城の築城期間が長かったことから、高い石垣に野面積みから打込みハギまで各種の石積みが見られる。
印象 甲府城跡の一部に中央線の甲府駅がある。少しすすけた石垣があるのは、石炭のすすのせいか?曲輪や堀、石垣が壊されている。江戸城防衛拠点として重要視された為、高い石垣造りのがっしりとした城郭。現在修復保存中で完成が楽しみ。天守台から見る富士山、甲府盆地の眺望がすばらしい。
地図
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略史  甲斐武田氏の祖信義の子の一条忠頼が館を築き一条小山城と称した。しかし忠頼が源頼朝に謀反の疑いで謀殺されたと、夫人は菩提を弔うため館を尼寺に建替え、一条寺と改められた。武田家滅亡後、織田信長は重臣の河尻秀隆を領主としたが秀隆の暴政から武田の旧臣に殺され、その後甲斐は徳川家康と北条氏政の争奪の場となるが結局武田遺臣の多い徳川領となった。家康は盆地の中央にある一条小山に注目し、平岩親吉に新城の築城を命じた。しかし家康の関東入部に伴い豊臣秀吉の家臣、羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政が領主となり城郭がほぼ完成した。関ヶ原後、浅野幸長が和歌山へ転封し徳川家の直轄領、そして家康の九男義直が入封した。その後も徳川氏一門の忠長、綱重、その子綱豊が支配した後柳沢吉保が入封し城郭、城下町を拡張、整備した。吉里の時大和郡山に転封となり廃藩、以後幕府領となり甲府勤番支配となった。
縄張り図
以下H4年12月撮影
内堀・三の丸方面
内堀・数寄屋曲輪方面
 
三の丸・天守曲輪下
坂下門周辺石垣
天守曲輪門
坂下門
   天守曲輪門
   
本丸鉄門
三の丸から本丸方面
内堀長塀から本丸を
鍛冶曲輪門
以下H12年6月撮影・鍛冶曲輪石垣
数寄屋曲輪石垣
稲荷曲輪石垣
稲荷曲輪へ
内松陰工事
稲荷曲輪石垣
内堀(現道路)石垣
武徳殿
    本丸方面
   
以下H14年9月撮影・内松陰門
本丸下
本丸銅門
本丸より内松陰門方面
 
本丸
天守台石垣
本丸天守台
天守台内
天守跡
鉄門
本丸下
三の丸から本丸
天守曲輪より三の丸
内堀・長塀