日本の城跡
川越城(別称:初雁城)
略史 関東管領扇谷上杉持朝が足利成氏(古河公方)に対抗する為太田道真・道潅父子に命じて築城した。扇谷氏は八十年間城主として君臨したが道潅暗殺に及んで山内、扇谷氏の内部抗争に発展、その間隙を衝いて北条早雲が台頭しその子氏網は上杉朝定を川越城から追い手中に収めた。その後両上杉氏・古河公方足利晴氏が連合して北条氏に反撃するも川越夜戦で敗れ北条氏が関八州を領有した。豊臣秀吉の小田原征討に伴い徳川家康が関東に入部、川越に重臣酒井重忠を入城、川越藩を立藩した。前橋に転封後暫く番城となったが重忠の弟忠利が入封、家光を補佐すると共に喜多院を造営した。没後嫡男忠勝が深谷から入封し謹厳、好学の風で徳望を集めた。後堀田正盛、松平信綱等幕閣の重鎮が入封した。堀田氏の時川越大火により喜多院・東照宮が罹災、松平信綱は城構え、城下の整備、野火止用水の開削、新河岸川の改修等行った。その後柳沢吉保が入封、川越南方の原野を開拓、続いて秋元喬知が入封しローム層に合う養蚕・絹織物・川越いも等の栽培を奨励。次に松平朝矩が前橋城地崩壊の危機から川越に移った。松平氏は財政再建の為養蚕・絹織物等農業産業の育成に努めたが困窮は続き庄内への所替えを願ったが果せず幕末前橋に戻った。次に老中松平康英が入封、老中を辞し新政府軍に恭順して奥羽に派兵し武州振武軍を撃破した。 |