日本の城跡

玉縄城(別称:甘縄城)

外郭にある城碑
訪問日 H15年11月、H21年 3月他
ポイント 相模台地の南端が台地から切り離され、複雑な谷に囲まれた独立の低い丘で、下に柏尾川が廻って流れ天然の堀となっている。また柏尾川を使って海に出られ玉縄は北条水軍の要であった。更に三浦半島の基部にあたり交通の要衝でもある。武蔵国司上杉朝興、小弓御所足利義明・里見実尭、上杉謙信、武田信玄との戦いでも堅城ぶりを発揮している。
印象 清泉女学院の敷地になってしまい、中に入れなかった。周囲の丘から少し垣間見るのみ。隣接する住宅地に石碑が寂しくあった。関東七名城の一つの山城だったのに残念。周辺の首塚、寺群を廻った。H21年3月に町内の散歩の会で学校に交渉してくれて校内に入る。諏訪檀が残るだけだが、僅かに残る遺構を感慨深く見る。遺構自体は目立つものは残っていない。
地図
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略史  北条早雲は三浦半島の新井城を本拠として相模一帯に勢力を拡大していた三浦義同との戦いが持久戦となった為、三浦半島に三浦氏の援軍を入れない目的で築城した。その後東相模最大の拠点として歴代北条一門が城主になった。豊臣秀吉の小田原征討で城主氏勝は山中城の援軍に赴いたが敗れ、退却して玉縄城に籠ったが、徳川家康の献策で本多忠勝をして降参を説得、ついに開城させた。家康の関東入部で本多正信、水野忠守が入城。次に大河内正綱が入封、甘縄藩を立藩したが、孫の正久の時大多喜に転封となり廃藩になった。
遠望・清泉女学院
遠望
土塁
貞宗寺
龍宝寺山門
同本堂
 
同寺内の石井家屋敷
久成寺
同寺の長尾定景の墓
円光寺
里見氏と北条氏の戦いの時の首塚
H21年3月訪問。諏訪壇の急崖
諏訪壇
  同下の城碑
   
同頂部
主郭に立つ校舎
諏訪壇下の石塁
同の堀切
同の石塁
同の石垣
土塁
城塁
七曲坂
同からみる
陣屋坂