日本の城跡

宇都宮城(別称:亀ヶ丘城)

本丸土塁跡
訪問日 S62年10月 、 H15年 9月 、 H19年 7月
ポイント 奥州街道と日光街道の分岐点の北関東の要衝。将軍の日光社参の際の宿泊地としても重要な役割。四重の堀をめぐらした本丸、二の丸、三の丸、外郭等を持つ関東における最も優れた縄張と規模を持つ。関東七名城の一つ。”宇都宮釣り天井事件”は本多正純を追い落とすべく起きた幕閣の権力闘争であるが城の幕府への無許可普請と石垣普請を咎められたもの。
印象 よくもこれだけ壊したものだ。中学校が近くにあった為時々遊びに来ていた。土造りの為城郭としての評価を低くみた結果か、関東の名城も無残。市役所などが建てられており市の感覚を疑うし、出身者として恥ずかしい。一部復元しようとして土地を買い戻しているとのこと、ばかばかしい!    本丸の一部復元した為訪問。少し城跡らしくなったが、復元するには大変な労力が必要だ。 
地図
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略史  宇都宮氏は関白藤原道兼の孫兼房の子で、下野一宮の宇都宮座主宗円、宗網父子を祖とする。中央貴族が地方有力神社の社家として下向し豪族化した。宇都宮城は鎌倉御家人と宇都宮惣倹校を兼ねた宇都宮氏の居館として出発。南北朝期に城郭として拡張した。戦国期には上杉謙信、北条氏政、武田信玄の侵攻をいずれも阻止、秀吉には臣下の礼をとり本領安堵をうけたが、浅野長政の子の養子受け入れを拒否したことから秀吉の勘気にふれ改易、追放となった。その後浅野、蒲生氏が支配、関ヶ原後奥平家昌が入封、その後も奥州の押さえとして有力譜代大名が就封した。次に本多正純が入封し検地、居城の改築、日光道中と奥州道中の付替え等積極的な経営を行ったが敏腕が仇となり、幕閣の権力に敗れ配流となった。(宇都宮釣り天井事件) その後奥平、奥平松平、本多、三度目の奥平、阿部、戸田、深津松平の後、戸田忠寛が入封し明治まで在封した。戸田氏は幕府の要職を歴任し、又天皇陵修復事業を建白、山陵奉行として修理を行った。戊辰時勤王方に藩論を統一、官軍を受け入れた為大鳥圭介ら旧幕軍の攻撃を受け占拠されたが官軍の増援で奪還した。
縄張り
本丸城碑
本丸
本丸模擬石垣
本丸土塁
模擬水堀
  二荒山神社
    
古写真
復興土塁・櫓
同・水堀
同・櫓
御殿