日本の城跡

高山城(別称:高山本城・肝付城・山之城)


切立った空堀
訪問日 H29年12月
ポイント 城は南、北、西は本城川、栗山川、高山川が流れ、東はシラス台地の急崖という「天然の要害」に立地している。そして深く広い3つの空堀と急峻な切岸に囲まれた本丸、枡形、二の丸、山伏城、奥曲輪と呼ばれる土塁が付いた曲輪がある。本丸と二の丸は各2段で、虎口を持っている。大手は主体部の西側、二の丸の北で、搦め手は主体部の南側で、本丸と二の丸の間にある。二の丸の南にある小曲輪の南の道は細くなっており、馬一列しか通れないということで、一騎通しといい、二の丸の西南端下に湯沸場跡がある。台地続きの東方は堀切で区画し、東方への備えをしている。”一度も陥落したことがない堅牢な城”である。
印象 深く切岸の空堀と土塁で固めてある、本丸・二の丸・山伏城・枡形は整備されており、圧巻だった。奥曲輪群は藪の中に突入を試みたが、途中断念。シラス台地の城はどこも空堀・切岸が立派だが、少し見慣れてきたせいか、だんだん同じような景色に見えてきた?
地図
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略史  肝付の祖は大伴氏を称し、安和元年(968年)に伴兼行が薩摩国総追捕使となり薩摩に下向した。兼行の孫の兼貞は、島津荘の有力豪族平季基の娘婿になり、子の兼俊は肝付寄郡弁済使職として、肝付に移り、以後高山城を本城とし肝付氏を称した。鎌倉時代に御家人の島津氏が薩摩・大隅へ入国してからも、肝付氏は大隅半島に勢力を拡張した。南北朝期、肝付氏は南朝方の中心的役割を果たして、北朝方の島津氏との抗争に明け暮れた。戦国後期、肝付兼続は薩摩国島津氏と日向国伊東氏の間で巧みにバランスよく立ち回り、戦国大名肝付氏の絶頂期を築いた。しかし島津氏との抗争は続き、兼続が隠居城とした志布志城で、島津氏の攻撃で自刃した。後継の良兼はその後も鹿児島を襲い、牛根城で島津勢と激戦を交わしたりしたが、味方の禰寝氏が島津氏に降伏したこともあって、弟の兼亮の時に島津氏の軍門に下った。その後も領地を縮小したものの、肝付氏は引き続きこの地を治めていたが、1580年に肝付氏は阿多に移封され、高山城は廃城となった。外城の機能は、支城であった弓張城に高山麓が設置されて遷移した。

遠望
    本城小跡

三の丸跡

馬乗馬場跡

三の丸跡

大手口

 湯沸場への分岐

湯沸場



大来目神社へ(城の鎮社・見張台)
神社下の曲輪球磨屋敷跡

球磨屋敷にある祠

神社への階段

神社から球磨屋敷跡を見る

堀切

大来目神社祠

祠のある細尾根

尾根先端(見張台)

竪堀

大手に戻る

大手門跡

崩れるシラス

空堀

山伏城へ

山伏城切岸

同虎口へ

同虎口

同虎口を内部より

山伏城


急崖の城塁

二の丸虎口

二の丸


同土塁

二の丸上段土塁

上段虎口

二の丸上段・土塁

同土塁

下の空堀に

空堀


堀切

空堀

搦め手門跡

空堀



枡形への分岐

本丸方向へ

更に行く

本丸虎口へ

枡形


内部より枡形を見る

本丸


同土塁

土同


上段切岸

下の空堀に

枡形へ

枡形

同土塁



主要曲輪中心にある削平地

馬乗馬場へ

馬場へ

馬乗馬場

奥曲輪へ


途中で引き返す

大手口へ帰る

秘剣・薩摩自顕流発祥の地碑

日本最初の禅寺・道隆寺跡へ