日本の城跡
小田原城
略史 鎌倉幕府創業の重臣で土肥実平の子、遠平が小早川氏を称して築城。その子、惟平が和田義盛の乱で敗れ安芸に去り、後毛利氏の両川として活躍した。一方、小田原に残った惟平の子惟時も上杉禅秀の乱で敗れ家は断絶した。次いでこの乱で軍功あった大森氏が入城し、相模の大勢力となったが韮山に本拠を構えていた北条早雲が大森氏を襲い、小田原に後北条氏の基礎を築いた。そして城郭は八幡山本丸から次第に現在の本丸方向に拡張し近世城郭を形成、更に城下町を取込んだ大外郭を作り上げた。徳川家康の関東入部後、徳川の重臣大久保忠世が入城立藩したが、嫡男忠隣の時本多正信と対立し改易配流、城は石垣と外郭の一部を破却、代官領となった。城代支配後、阿部氏そして春日局の子稲葉正勝が入封、東海道の要として幕府の命により城の改築をした。正則は箱根用水を完成させ大規模な新田開発を行った。転封後大久保忠朝が入封し72年ぶりに大久保氏が復活した。大久保氏は物資の流通、作物の収穫の良さで財政を支える一方東海道の要として箱根の嶮の管理を重視した。しかし大地震と富士山噴火で農村は荒廃し財政は窮乏した。農村復興の為二宮尊徳を起用し藩政改革を実施、藩士には質素倹約を励行させた。異国船来航が頻繁になると海防派兵と武備を強化した。幕末、勤王佐幕で割れたが箱根戦争では勤王方になった。 |
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