日本の城跡

岩富城

遠望
訪問日 H4年11月、H25年 1月
ポイント 城は八街方面から西に延びる台地の西北端に築かれている。西と北側は急崖となり、崖下は深田が広がり、東と南のみが台地続きの要害の地である。方形の本丸を台地の最高所に置き、東と南には深く広い堀を巡らしている。周囲に曲輪を構えていたが、開発で住宅地になり遺構は消えた。
印象 遠望。20年ぶりの再訪。台地の先端。鳥居のある所から入ると郭跡らしきもの、更に上がると深い堀と高い土塁が構える虎口があり見ごたえある。主郭に入ると結構広く、土塁が周囲を取り巻いている。なんと山羊が飼われていた、母乳を搾っているのだろうか。北西隅に浅間神社が祀られている。そこから見ると西側の急崖と湿田の広がりを実感!
地図
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略史  岩富は中世は白井庄弥郷と呼ばれ、白石や支族の弥富氏の支配下にあった。1455年馬加康胤・原胤房らが千葉宗家を滅ぼすのと同じ頃、原氏は千葉氏の臣下であった白井氏を追い弥富郷に入った。岩富城は1470年頃原景広によって築城された。豊臣秀吉の小田原征討の時、甘縄城に籠城していた北条氏政の家臣北条氏勝は本多忠勝らの降伏勧告に応じて徳川家康の臣下になった。家康の関東入部に伴い、氏勝は関東攻略の先導役を勤め、戦略上重要な千葉氏方の岩富城攻略の先鋒となり、落城後この地を与えられ立藩した。死後保科正直の氏重が養子となったが、二年後に下野富田へ移封し廃藩となった。
入口 主郭へ 途中の郭跡か
主郭虎口 同の土塁 同の空堀(左) 同の空堀(右)
主郭 同(山羊がいた) 同西側・南側土塁 同にある浅間神社
同西側急崖
同湿田
同北側土塁 主郭・左に虎口
もう一つの虎口(近年のものか?) 南側堀切 西側からの遠望