日本の城跡

中野城

お堂・城碑
訪問日 H20年 9月
ポイント 東金街道に面し、下総と上総国の国境に位置する。規模は大きくないが、屈曲のある二重土塁や空堀を配し、複雑な郭配置にした中世後期の城郭。酒井定隆が戦国武将として成長した居城。そして領国支配を法華宗をもって統治したが、中野城内に道場、本城寺を創建して本拠地とした。
印象 天険の地ではない為、土塁・堀等に工夫している。法華宗の布教の本拠地、本城寺が建っており大夫遺構が壊されているが、寺の裏に大規模な土塁が残っており思わず興奮する。中世の豪族の館規模。面白かった。
地図
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略史  新田氏の血の引く遠江の住人、酒井貞信の子定隆は関東に下向して鎌倉公方、足利成氏に仕えた。しかし成氏は関東管領上杉氏との戦い敗れ古河に逃れた為定隆も従った。その後古河を離れ、古河公方の幕下であった里見氏、更に千葉氏の一族で小弓城主の原氏を頼り、その配下になり上総武田氏に対する前線基地の中野城を守った。そして千葉氏の有力武将として扇谷上杉氏方の太田道灌らと戦い戦功を挙げ、土気古城を再興して移った。定隆は領国内の寺を全て法華宗に改め、領国を法華宗をもって統治、旧中野城内に本城寺を開き布教に努めた。
登城口
門前(城地)
山門(同)
鋳銅鰐口発掘案内
本堂
本堂横の土塁
本堂脇の土塁
堀跡
本堂脇の土塁
本堂奥の土塁