日本の城郭

佐倉城

天守台
訪問日 H3年 2月
ポイント 馬の背のような幅狭い、三方を急崖をもった半島状の台地にある。空堀で城下町と区切り、他方を水堀をめぐらし、麓を流れる鹿島川を外堀として利用。家康は江戸城の外郭として重視した為幕閣譜代を置いた。掘田氏の子孫は戦後も市長に公選される等佐倉市民に評価を受けている。掘田氏の努力により国立歴史民俗博物館を城跡に誘致した。
印象 明治に入り陸軍の兵営が建てられ、歩兵第五十七連隊の本拠となった為城内の建物はすべて破却された。ただ、水堀、本丸、二の丸、天守台等遺構は残っており楽しめる。私が千葉に勤務中にある縁で今もお住まいの掘田氏にお会いできたが、その品格に圧倒さたことと、名古屋の徳川美術館に対抗して佐倉に国立の歴史民俗博物館を誘致した話が印象的だった。
地図
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略史  戦国末期、千葉氏は本佐倉城から鹿島台に築城を目論んだが、家臣の造反で工事は中止になった。次の重胤は豊臣秀吉の小田原征討の時、与した後北条氏と運命を共にした。未完成の佐倉城は徳川家康に攻められ落城、焼き払われた。家康の関東入部後、三浦義次を入封立藩させた。以降、家康の子、信吉、忠輝が入封、一時天領後小笠原氏、そして土井利勝が入封し城郭を拡張整備して近世城郭とした。その後も石川、形原松平、掘田氏と譜代大名が入封した。掘田氏の時、佐倉惣五郎事件が起き除封、大給松平、大久保、戸田、稲葉、大給松平氏の後に掘田氏が再封し定着した。浅間山の大噴火、利根川の洪水で被害を被り財政は困窮した。正睦は老中として水野忠邦と天保の改革を推進したが失敗、一時失脚したが幕末に返り咲き、日米修好通商条約を調印した。戊辰時将軍慶喜の助命嘆願の為西上したが、藩主正倫が新政府軍に捕えられた為勤王に傾いた。
遠望
三十三間堀
薬研堀
土塁
三の丸脇の空堀
三の丸
三の門
二の門
二の丸
本丸隅櫓
一の門
本丸、左奥に銅櫓
天守台
空堀
水堀
城から見る
以下各門(絵葉書)・大手門
三の門
二の門
椎木門
一の門