日本の城跡
矢作城(別称:大崎城)
略史 千葉氏一族の国分氏四代胤長の子泰胤が本矢作城から大崎の地に城替えして築城。以降、約250年間国分氏の下総経営の拠点となった。しかし永禄年間に安房里見氏の将、正木軍の攻撃を度々受け、ついに落城し国分氏は逃れた。その後正木軍が勝浦に帰った為、国分氏は城地を回復し地頭の職分を遂行した。豊臣秀吉の小田原征討により北条氏は滅亡、関東は徳川家康の管掌するところとなった。北条に味方した房総の各城主は徳川軍の前に逃散、矢作城主国分氏も常陸鹿島に走った。その後水戸家の客分となり明治にいたっている。矢作城は徳川氏の関東入国後、鳥居元忠が入城したが狭隘を理由に岩ヶ崎に新城を造り始めた途中に転封となり、当城は周囲の諸城とともに廃城となった。 |