日本の城跡

檜山城(別称:霧山城)


将軍山への枡形虎口付近のカモシカ君
訪問日 H29年10月
ポイント 城は米代川の支流、檜山川南の霧山およびその山麓の馬蹄形の地形を利用して築城。堀切・段築を削って要害とした東西1500m、南北900mな大規模山城。西方に羽州街道が走る。本丸・二の丸・三の丸は南側の最頂部に位置し、北側の緩斜面にも多数の曲輪や腰郭が堀切や竪堀で固めている。そして東には最高所にある将軍山の曲輪群があるが、本丸からの途中に枡形と土橋を組み合わせた虎口があり、最も技巧的である。
印象 細い車道を心配しながら登っていくと、三の丸下にたどり着いた。ひと安心だ。尾根筋に沿って広範囲に曲輪を配置し、それらを堀切・竪堀・虎口等で防御している。本丸・二の丸を見て、本丸の下の道を通って将軍山へ。途中、枡形や堀切の遺構の他、曲輪らしいぼこぼこな地形、竪堀等、本丸周辺と異なる景色であった。熊の出現が怖かったので、将軍山で引き返した。今日も”かもしか君”に会う、ここの住人らしい。
地図
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略史  室町時代初期、安東兼季が築城。戦国時代に入り、安東政季・忠季父子が当地を領有していた葛西氏を滅ぼしてここに本拠を構えた。その後修築を重ねて15世紀末には完了し、以後愛季・実季まで5代にわたる檜山安東氏の居城となった。安東氏は青森県十三湊に起こり、湊・檜山に分かれたが、北海道・青森・秋田地方に勢力を伸ばした。戦国時代末期、檜山安東愛季・実季は織田・豊臣の知遇を得て、戦国大名に成長し、愛季の時、両家を併せた。しかし次の実季の時に、領内支城主が本家からの独立を狙い内紛が勃発した。所謂、湊合戦で、実季は苦戦したが檜山城に籠城、由利の赤尾津市・羽川氏の応援を得て内紛を鎮圧した。実季は居城を檜山から土崎湊城に移し、名も秋田城介とした。関ケ原の役後、佐竹氏の秋田入部により、秋田氏は常陸宍戸に転封となり、檜山城には佐竹氏の小場義成が入城した。その後小場氏は大舘に移り、代わって多賀谷宣家が一万石を受けて入ったが、幕府の一国一城令により廃城となった。しかし多賀谷氏は代々この地にとどまり、廃藩置県までこの地方の政治・文化の中心となった。

遠望

三の丸

腰曲輪

三の丸

眺望

三の丸櫓台

三の丸下の堀切

同堀切から櫓台

三の丸から古寺跡方面


三の丸帯曲輪


三の丸南側の曲輪

二の丸

二の丸下の曲輪

本丸虎口

本丸切岸

本丸

本丸下の腰曲輪

本丸


同・土塁?

本丸南側の尾根曲輪



曲輪

曲輪

本丸切岸

本丸切岸・二の丸方面

本丸切岸

将軍山への道

将軍山方面


枡形虎口


土橋

堀切


切岸

竪堀


曲輪

曲輪

曲輪

将軍山

将軍山

      同

曲輪群

土橋


曲輪

カモシカ君

古寺跡入り口


登城道(上)と車道

    登城道