日本の城跡
金沢柵(別称:金沢城)
略史 平安時代の城柵。前九年の役後、奥六郡を支配した出羽の豪族清原氏本拠地。その後清原氏の内紛が勃発し、後三年の役の決戦場となった。清原真衡の時、その専制的な支配に一族の長老吉彦秀武が反抗したのが発端。これに真衡の父母と違う弟清衡・家衡が同調したが、陸奥守源義家が介入し真衡を助けた為、清衡側は敗走した。しかし真衡が急死し、清衡・家衡が降った為、義家は奥六郡を二人に二分したが、今度は両者間で争いが生じた。義家は清衡を助けて家衡を沼柵に攻めたが、大雪で撤退、これを聞き家衡の叔父武衡も家衡に加担し、更に堅固な武衡が守る金沢柵に拠った。翌年義家・清衡勢は金沢柵を兵糧更に水攻めにより攻略した。時代が移って室町時代後期の1458年、南部氏の家臣・金沢右京亮がこの柵を修築入城、その後小野寺氏の家臣・金沢権十郎の居城となり、更に佐竹氏の入部で東将監が入り、1615年の一国一城令で破却された。 |