日本の城跡

金沢柵(別称:金沢城)

JR後三年駅
訪問日 H22年 8月
ポイント ”かねさわのき”の名称。四周が断崖絶壁な岩山で天然の要害。古くから先住民族の砦として利用されてきた。二郭に金沢八幡宮が鎮座し、大きな堀切を隔てて北郭がある。また二郭の東側にも堀切があり、兵糧倉郭、更に腰郭、そして主郭がある。主郭東には連続竪堀、尾根に多くの堀切で固めている。更に主郭の谷越えの西側に西郭が細長く展開し堀切の先は武者溜と思われる。このように遺構が良く残っているのは、室町後期の南部氏の時代から江戸初期の佐竹氏まで山城を構えていた為。
印象 予てから来たかった柵。資料館で勉強した後、いよいよ金沢公園へ。山麓から登るべきであるが、かなりの坂道とのことで一気に頂上近くの駐車場まで行く。主郭はじめ二の郭・北郭・深い堀切等残り、結構楽しめた。平安時代の柵にしては?・・・と思っていたら、中世に修築し、江戸時代まで大名の家臣のれっきとした山城であった。それにしても明治天皇・昭和天皇はじめ、皇室の方々がたくさん来られているのは(石碑あり)、なんで?
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  平安時代の城柵。前九年の役後、奥六郡を支配した出羽の豪族清原氏本拠地。その後清原氏の内紛が勃発し、後三年の役の決戦場となった。清原真衡の時、その専制的な支配に一族の長老吉彦秀武が反抗したのが発端。これに真衡の父母と違う弟清衡・家衡が同調したが、陸奥守源義家が介入し真衡を助けた為、清衡側は敗走した。しかし真衡が急死し、清衡・家衡が降った為、義家は奥六郡を二人に二分したが、今度は両者間で争いが生じた。義家は清衡を助けて家衡を沼柵に攻めたが、大雪で撤退、これを聞き家衡の叔父武衡も家衡に加担し、更に堅固な武衡が守る金沢柵に拠った。翌年義家・清衡勢は金沢柵を兵糧更に水攻めにより攻略した。時代が移って室町時代後期の1458年、南部氏の家臣・金沢右京亮がこの柵を修築入城、その後小野寺氏の家臣・金沢権十郎の居城となり、更に佐竹氏の入部で東将監が入り、1615年の一国一城令で破却された。
遠望 二の郭城塁 二の郭(金沢八幡宮) 二の丸と北の郭間の堀切
北の郭 北の郭から二の丸土塁を見る 兵糧倉 主郭下の腰郭
主郭 主郭下の竪堀 西の郭方面
主郭と西の郭間の谷
縄張り