日本の城跡

久保田城(別称:矢留城)

復元表門(一ノ門)
訪問日 H5年12月                H6年 7月        
ポイント 左遷大名の遠慮からか天守閣と石垣がなく、囲いは土塀と板塀だったが五重の堀、土手をめぐらし、郭もを配した堅固な城。
印象 東北に飛ばされたとはいえ大大名の城らしくゆったりとした縄張り。長坂門が復元され一段と風格が出てきた。
地図
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略史  関ヶ原の役で家康に味方しなかった咎で佐竹義宣は秋田へ国替えに。当初安東氏の居城、湊城に入城し立藩した。たが平城でかつ手狭な為水運に便利で所領地の中央にある当地に築城し城下町の整備、検地、知行割を実施し藩体制を確立した。他方銀・金鉱山の開発、山林を財政基盤とした。その後鉱山の衰退で財政は窮乏、銀札を発行したが経済的混乱を招いた。更に大飢饉により窮乏はその極に達したが義和の時農業の振興、鉱山の奨励、養蚕・製紙等殖産興業策を実施、又人材登用で藩政の刷新を図った。幕末、勤王派が台頭、奥羽越同盟に加担せず久保田にいた仙台藩の使者を殺害、仙台、盛岡藩の攻撃を受けたが新政府軍の応援を得て切り抜けた。
中土橋門
大手口堀(古写真)
大手口堀
内堀
本丸
  御隅櫓
 
遠望
裏御門
長坂門
二の丸
本丸
埋門
本丸土塁
帯郭御門