日本の城跡
久保田城(別称:矢留城)
復元表門(一ノ門) |
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略史 関ヶ原の役で家康に味方しなかった咎で佐竹義宣は秋田へ国替えに。当初安東氏の居城、湊城に入城し立藩した。たが平城でかつ手狭な為水運に便利で所領地の中央にある当地に築城し城下町の整備、検地、知行割を実施し藩体制を確立した。他方銀・金鉱山の開発、山林を財政基盤とした。その後鉱山の衰退で財政は窮乏、銀札を発行したが経済的混乱を招いた。更に大飢饉により窮乏はその極に達したが義和の時農業の振興、鉱山の奨励、養蚕・製紙等殖産興業策を実施、又人材登用で藩政の刷新を図った。幕末、勤王派が台頭、奥羽越同盟に加担せず久保田にいた仙台藩の使者を殺害、仙台、盛岡藩の攻撃を受けたが新政府軍の応援を得て切り抜けた。 |