日本の城跡
沼の柵・沼館城
略史 沼の柵は後三年の役の激戦地で、清原家衡は沼の柵に立て籠もり、源義家の加勢を得た清衡軍の攻撃を迎え撃った。沼の柵は四方を水に囲まれた水城で、家衡は冬まで持ち堪えた為、攻撃軍は寒さと飢えで多くの兵を失い、陸奥に撤退した。その後家衡は要害堅固な金沢柵に移ったが、再び義家・清衡連合軍の攻撃で受け、金沢柵は攻め落とされ、後三年の役は終わった。戦国期、雄勝・平鹿郡に勢力を伸ばした小野寺氏は、仙北平野に拠点を求め、12代稙道の時、稲庭城から沼館城に居城を移した。次の輝道の時、横手城に居城を移した為、稙道の庶子秀道を城代として入城させた。小野寺氏は関ケ原の役で西軍に与した為、配流となり沼館城は廃城となった。 |