日本の城跡
三田城
略史 戦国末期、三田城は荒木村重の家臣荒木平太夫が居城(車瀬城)としていた。豊臣政権下では家臣の山崎竪家が入封し、関ヶ原の役後は有馬則頼が入城立藩(車瀬城を改修)した。則頼没後、丹波福知山の城主で嫡男の有馬豊氏の領地となり、福知山藩と合併した為廃藩、三田城も廃城となった。豊氏が久留米に転封後は、出羽上山から松平重直が入封し再立藩したが、6年後移封し九鬼久隆が鳥羽から入封。久隆は新城は認められなかった為、三田城を廃して古城とし、城跡の南部と西部を整備して三田陣屋を構えた。熊野水軍として名をはせた九鬼氏は鳥羽城を本拠としていたが、関ヶ原の役で城主の嘉隆は西軍に、嫡男の守隆は東軍に与した。戦後守隆は鳥羽の旧領を継いだが、守隆没後、父と西軍に与した弟の久隆が後継となった為、幕府は減封のうえ海の無い三田に転封した。他方、守隆の三男隆季に丹波綾部に新封を与え築城立藩させた。隆国の時、江戸城神田橋、常盤橋御門番を務めた功績で念願の城主格に列せられた。維新時、諸藩に先駆け帰農を奉請し時局に対応したが、激しい農民一揆が起り、藩主への投石等混迷した。 |