日本の城跡

三田城

三田小学校門前の城碑
訪問日 H24年 1月
ポイント 陣屋は市街地に突き出た丘陵の先端にあり、その下を武庫川が流れる要害の地にある。主郭は方形で今の三田小の所で、表御門・式台・玄関・書院・居間・客間等あり、裏に的場・御蔵があった。南の大池を堀とした。北は内堀を挟んで有馬高がある所(旧車瀬城)に二の丸を配置し、周囲を水堀が巡っていた。また、詰の城として心月院・熊野神社を城砦化して備えた。九鬼氏は水軍の昔を忘れないよう、堀に代用した大池に舟を浮かべ訓練したという。
印象 道を間違え苦労する。大池を前にした小学校、後の内堀を挟んだ高校の所にあった。周囲を巡っていた堀の大部分は消滅したが、高校前に内堀が立派に残っている。更に九鬼家住宅、武家屋敷門がある。移築された黒門がある金心寺にいったが、寺の麓にある名称古城公園が明らかに段丘状の曲輪があるが城跡か?
地図
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略史  戦国末期、三田城は荒木村重の家臣荒木平太夫が居城(車瀬城)としていた。豊臣政権下では家臣の山崎竪家が入封し、関ヶ原の役後は有馬則頼が入城立藩(車瀬城を改修)した。則頼没後、丹波福知山の城主で嫡男の有馬豊氏の領地となり、福知山藩と合併した為廃藩、三田城も廃城となった。豊氏が久留米に転封後は、出羽上山から松平重直が入封し再立藩したが、6年後移封し九鬼久隆が鳥羽から入封。久隆は新城は認められなかった為、三田城を廃して古城とし、城跡の南部と西部を整備して三田陣屋を構えた。熊野水軍として名をはせた九鬼氏は鳥羽城を本拠としていたが、関ヶ原の役で城主の嘉隆は西軍に、嫡男の守隆は東軍に与した。戦後守隆は鳥羽の旧領を継いだが、守隆没後、父と西軍に与した弟の久隆が後継となった為、幕府は減封のうえ海の無い三田に転封した。他方、守隆の三男隆季に丹波綾部に新封を与え築城立藩させた。隆国の時、江戸城神田橋、常盤橋御門番を務めた功績で念願の城主格に列せられた。維新時、諸藩に先駆け帰農を奉請し時局に対応したが、激しい農民一揆が起り、藩主への投石等混迷した。
陣屋前の大池 有馬高
有馬小・高間の水堀 同空堀 大蔵周辺から見る
旧九鬼家住宅 武庫川 市内の正覚寺 同萱ぶき屋根の家   金心寺麓にある古城公園
金心寺山門(九鬼藩下屋敷黒門移築)
武家屋敷長屋門